2016年10月9日日曜日

[081.1] Keith Fullerton Whitman


Pitchforkの特集記事「The 50 Best Ambient Albums of All Time」に掲載された
キース・フラートン・ホイットマンによる前書きの粗訳
一部、不正確な訳になっているかもしれません。

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THE NAMELESS, UNCARVED BLOCK
匿名の、彫られていない石塊
by Keith Fullerton Whitman

私は今、カーター・トーマスの「Sonoma」に専念しようとしている。80年代中頃にイギリスでプレスされたこのレコードは、70年代初期にもっぱらBuchlaとSerge製の豪壮な機器を使って作曲された3曲が収録されている。深い、レゾナント・オシレーターの響き、余計な音は何一つない。この曲の精練された暗い休息は、まさに私が探していたものだ。歴史上無視された先駆的事例で、これまでほどんど議論されることはなかった。
しかし、なかなか集中することはできない。11分のオープニング曲を聞いている間に、私の電話は既に2回鳴っている。他の部屋には、何かしら骨の折れる仕事を抱えた別のコンピュータがある。ハードディスクとファンの中音域のクラックルノイズが聞こえる。カバーはアーカイヴ用のクオリティでスキャンされている。この数分ほど、レコードの音に聞違えるほど静かで心地よい音が響いている。壁のランプは銀の光を放ち、それからゆっくりと弱くなり、次第に消えてゆく。私の焦点はほかの場所へ、どこへでも。
アンビエント・レコードのリストに取り組むにあたって、私が最初に考えたことは「21世紀におけるアンビエントとは何か」であった。現在の生活の需要を考えると、マルチタスクはそれで1つの行動になり、私達の受容域の全てを占拠している。その昔、私達は目を閉じてヘッドホンを着け、テープの片面(アルバムではなく)の中に容易に没頭し、また離れることも可能だった。気晴らしに3分〜5分のありふれたポップソングを聴き、ヒロイックな気分に浸る世界のプロセスを考える。アンビエント・ミュージックの狙いは、いつだって明らかに科学プロジェクトに似ていた。完全に成し遂げられたとき、時間は伸縮自在で順応になり、望ましい結果が得られる。
私達が認められる唯一のことは、この音楽を取り巻く言葉を、音楽家もオーディエンスも誰一人として認めない事である。ニヒルな振る舞いとしての「ドローン」は、ますます悪意のある意味合いになり、暗に含まれた受動性から離脱する。トニー・コンラッドやダミオン・ロメロのパフォーマンスを楽しみ/耐えた人々がそれを証明したように。私は「ターフェルムジーク=食卓の音楽」というタームをいつも好む。それは、ゲオルク・フィリップ・テレマンが1733年に作曲した組曲で最もよく例示された、他の行動に付き添うための音楽。まったくシンプルでありのままのタームである。「ミニマリズム」は、多くの場合マキシマルになりうる。スティーヴ・ライヒの作品の中で、私が特に好きな「Music for Large Ensemble」が証明している。
アンビエントの世界への私自身のパーソナルな航海は、ニュージャージー州北部・モントヴェールとウェインのレコードフェア──正確にはひどい悪臭について訊ねた場所──から始まった。停学中の思春期、高価な輸入CDと粗末にラベリングされたVHSテープがたくさんのテーブルに並べられたフェア会場への潜入。数年かけて、ジョー・サトリアーニからビル・フリゼール、デレク・ベイリー、メタリカ、ナパーム・デス、そしてデミリッチへ移っていった。現在の、ブロードバンドの、いかにして早く神経細胞を次に繋げ、指を動かすことができるかという即時性と比べると、当時のペースはまるで氷河時代だった。しかし、それぞれの段階をしっかり味わうことができた。やがて、このまま魚であり続けるか餌を刻むか(訳注:レコードを探すか音楽を作るか)、より深い決断をすることになった。アンビエントは遅い音楽であり、それと向かい合う時に穏やかな変化を引き起こす音楽である。
私がロングフォームの音楽に熱中した最初の作品を特定することはできない。しかし、ニュージャージー州リッジウッドのレコード・コレクターズ・デポで、そこのオーナーの度々の不在で事実上の管理を担っていた、メレディス・モンクの弟子だった人物から教えられたテリー・ライリーの「Persian Surgery Dervishe」を、じっと耐えながら何度も聴き続けたことは覚えている。私は彼を信頼していた。彼の名を聞かない今になっても。それから間もなくフランソワ・ベイルの「Erosphére」を知ることになった。若いころに発見した何かが現在の私の感受性を形成しているとしたら、未だ名声高き「Toupie Dans Le Ciel」のセグメントだろう。後から考えると、それは非同期な決断で、この原子が、コンピュータ音楽の厳格さを逃避するように、私をアナログ・シンセシスの作曲へと導いた。私が何かを完全に消し去らなければならない時に後悔や野心といった感情が膨らむ場合、このレコードを手にとる。それは私の前頭部の皮膚に、速度・推進力の鮮明で心地よい刺激を与えてくれる。
私はまた、エリアーヌ・ラディーグの音楽に半ば信仰的な共感を感じている。彼女の録音に完全に屈伏してリラックス状態に達することは特別な体験である。大きな満足感があると言える。チベット仏教とラ・モンテ・ヤングへの深い傾倒から生まれた彼女の作品に、これからも注目し続けるだろう。フォトジェニックで、メディアに染められ、リバーブに浸された「モダンクラシカル」の音楽家──彼らはアップルで有利な位置にいることにかなり熱心だ──は、ここを辞退して緑色の牧草地を好みそうである。J・D・エマニュエルとジョアンナ・ブロークのカセット時代の素晴らしい作品は、それぞれミニマリズムと現代音楽のシーンから登場した。サンO)))は強烈な身体的体験であり、またメタル出身者の急進的活動への橋渡しとなった。ほぼ同じ形で、ジョン・ゾーンとジム・オルークが透明な起源からの影響を公然と示したことは、私にとって決定的だった。
アンビエントは巨大な合流地点である。全ての中心になるほど大きくはないが、その真上に浮かんでいる。完璧な静止軌道上に、手の届くところに。ベストの状態で、アンビエントは他のものを低下させるに十分な影を落とし、私達の知覚に変化を与えると同時に、今の時間と場所の外側に連れ出してくれる。


Keith Fullerton Whitman
composer and musician living in Melbourne, Australia